著名な水産功績者
品川 弥二郎(1843~1900)
大日本水産会初代会長(当時は「幹事長」)、明治23年名誉章
松下村塾で高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山形有明などの弟弟子として吉田松陰の薫陶を受ける。戊辰戦争では桂小五郎(木戸孝允)の指揮下で活動、岩倉具視、大久保利通の命により「錦の御旗」の製作や、「トンヤレ節」の作詞も行う。自身も奥羽まで遠征している。
ドイツ留学、外交官勤務を経て内務省、農商務省にて主に産業振興に尽力する。
1881年、1882年に相次いで設立された「大日本農会」、「大日本山林会」そして「大日本水産会」の幹事長に就任。
海上輸送を独占しようとしていた三菱との経済闘争に敗れたり、内務大臣として信用組合法制定をめぐり自由民権派と政争を繰り広げるなど「維新の志士」らしい行動を続けると共に、ドイツで学んだ産業組合の設立、法制化に最後まで尽力した。
獨協大学、京華学園の設立と運営の中心的役割も果たしている。
陸奥 宗光(1844~1897)
農商務大臣、漁業法の制定に尽力、明治24年水産功績者
陸奥(奥州)伊達家を祖とする紀州藩士(勘定奉行)の6男。勝海舟の神戸海軍操練所に入所後、坂本龍馬と知遇を得まもなく海援隊に入り英語を学ぶ。
維新中は対外国活動の中枢として機能し、明治政府においては伊藤博文の下で外務大臣として不平等条約の改正を成したのは有名。
農商務大臣として、我が国初の「漁業法」を制定すべしとして「漁業上立法の趣旨」を草稿し、その調査活動予算を確保する等、漁業振興に尽力した。
渋沢 栄一(1839~1931)
大日本水産会特別会員、日本の資本主義の父、明治26年有功章
藍染めや養蚕を営む豪農の出身、尊皇攘夷に傾倒し、徳川慶喜の側近として洋行。西洋の経済や文化を学んだ後、静岡藩の勘定方としての辣腕を見込まれ大蔵省へ。
国立銀行の設立に関わりながら下野、その後も三井組を中心とした第一銀行を皮切りに全国に設立、貨幣・証券制度の整備、鉄道、海運、ガス・電気、科学、製糸・紙、保険、ビールに及ぶまであらゆる産業における株式会社の設立運営に関わり、東京会議所(商工会議所の前身)や東京商業大学(現一橋大)などの設立をして産業振興と商工業者の地位向上を図った。
水産においては、捕鯨からコイの養殖まで多数の水産会社を設立する中、1893年(明治26年)、4月22日から2日間にわたり、三会堂で開催された大日本水産会の第11回大集会において「水産業の奨励」と題し、水産技術の振興の必要性と、産業としての発展が必要と演説している。
石垣 隈太郎(1859~1928)
水産王、昭和元年水産功績者
伊勢の国大社村(三重県)生まれ、14歳で三菱会社(海運)の給仕から貨物輸出掛となり、西南戦争時には御用船に乗船、軍需品の輸送を担当、函館にて三菱から独立して食料品の販売や漁業経営、ラムネの製造にも着手する。
帆船、汽船を10隻買入れ、海獣狩猟、アラスカからの魚の買い付けを経て、ロシア海域でのサケ・マス漁業に成功すると、サルベージや海運も営み、巨万の富を得、水産王と称される。
輸出食料品会社、東洋製罐ほかの会社設立に関わり、重役、社長等歴任する。
晩年は巨財を大日本水産会に寄付して石垣記念財団を設立せしめ、三会堂ビルの再建にあたらせた。函館の区会議員、商工会議員など務め、各種事業に私費を投じるなど、地方公事、産業振興に尽力した。
中部 幾次郎(1866~1946)
大洋漁業(現マルハニチロ)創業者、近代漁業の実践と大漁業資本の創設、昭和3年水産功績者
家業の魚問屋から動力船の導入によりいち早く瀬戸内海の鮮魚運搬の高速化に取り組み、集荷範囲を拡げると同時に朝鮮半島まで乗り出して日本海での漁業を制した。近海捕鯨、造船、冷蔵庫、更には農業にも進出し、林兼、大洋漁業グループを築いて行った。
そして、昭和12年当時の日本最大捕鯨母船「日新丸」を建造、大戦後はいち早く漁船建造して会社を再建し、我が国最大の漁業資本とした。
堤 清六(1880~1931)
日魯漁業(現マルハニチロ)創業者、北洋サケ・マス漁業の覇者、衆議院銀、昭和3年水産功績者
北方へ海外進出、貿易商を志しロシアへ渡る。アムール川河口で平塚常次郎(清六のパートナーで後継者、後に衆議院議員、大日本水産会第12代会長、昭和10年水産功績者)と邂逅し、北洋漁業への転身を決意。日露講和条約等の流れに乗り「堤商会」を設立して、米国式の最新鋭機械を導入しサケ缶工場をロシア沿岸各地に建設、量産体制を築き、大量に輸出して「あけぼの」ブランドを確立した。更に、北洋漁業各社を改組し、編入して「日魯漁業」を設立。
革命後のロシア(ソ連)の圧力に対抗するため、衆議院議員としても活動している。
国司 浩介(1887~1938)
トロール漁業と水産大企業の育成に懸命、昭和10年水産功績者
水産講習所在学中にトロール漁業研究のため国費で英独国に派遣、卒業後田村汽船船漁業部(現日本水産)の社運にかけて最新鋭のトロール漁船を英国で建造し、日本に回航、操業を開始する(1911年)。以降漁労設備と操業技術の向上により業績を上げ、33歳にしてトロール船許可数の6割以上を占める我が国最大のトロール漁業経営体を構成した。
民間初の水産研究所の設立、ディーゼル・トロールの導入、船内急速冷凍装置の開発・導入などにより、遠洋漁船漁業の発展につながる数々の技術革新・事業改革を進め、北洋母船式カニ事業にも進出する等、水産業の発展を使命とし情熱を注ぎ続けた。
高碕 達之助(1885~1964)
東洋製罐創業者、通産大臣ほか、昭和14年水産功績者
(旧制)中学校の先生の薦めで水産を志し水産講習所へ。卒業後は缶詰製造に携わり、メキシコや米国で缶詰工場を設立する。帰国後はカムチャッカに渡り、堤清六(ニチロ創業者)に協力しサケ缶作りを始め、大阪にて製缶会社「東洋製罐」を設立。その後は満州重工業副総裁、電源開発の初代総裁等を経て政界入り。経済審議庁(後の経済企画庁)長官、通産大臣、科学技術庁長官などを歴任した後に大日本水産会会長へ。会長就任後も日ソ漁業交渉や対中国貿易交渉などにおいて政府代表を務めた。
死去にあたっては、周恩来からも哀悼の言葉が述べられた。正三位、勲一等旭日大綬章。
飯山 太平(1891~1991)
初代水産庁長官、昭和35年水産功績者、水産翁
刻苦勉励して水産講習所を首席で卒業、水産局に勤務する。露領オホーツク沿岸の調査に出掛けた際、現地の劣悪な労働、生活環境を目の当たりにしたことから「理想の水産業」に目覚め、退官の上、実業によりその実現に邁進する。
国司浩助の勧めにより早鞆水産研究所(後に日本水産中央研究所)に籍を置くと、三陸方式の竹輪の量産に着手、米国製の機械を導入し、残滓を活用したフィッシュミールの生産にも成功を納める。
冷蔵・製氷事業に携わり、飯山が設立した中央冷蔵は日本水産を経て日本冷蔵(現ニチレイ)に引き継がれた。魚油からの石鹸製造に取組み、日本油脂の設立にも関わった。
戦後は定置網漁業権の独立を行い同協会の会長に納まると、実績を買われて、新生になった水産庁長官に推され、捕鯨再開等の山積みする課題に取り組んだ。
その後再び野に下ると、日本魚函サービス(現日本コンテック)を設立する等精力的に活動した。母校茨城県真壁町立谷貝小学校内に銅像が建っている。
鈴木 善幸(1911~2004)
内閣総理大臣、大日本水産会名誉会長、平成14年水産翁
岩手県山田町の網元の長男、宮古水高から水産講習所へ。学生時代より前近代的な網元制度を批判し、協同組合主義を唱えた。
卒後は大日本水産会の職員として伊谷会長に仕え、その命を受けて前身の全国漁業協同組合連合会の設立と運営に携わる。伊谷会長が現職のまま死去すると、その伝記を執筆。その後も全漁連の再編等を主導すると、第二次大戦後には企画部次長から職員組合執行委員長に就任、社会党の支援を受けて政界へ。
2度目の選挙後は、漁業、漁民のために働くには社会党では叶わぬと保守の自由党から出馬、その後水産行政、予算獲得に注力し、内閣総理大臣にまで上り詰める。
正二位、大勲位菊花大綬章。